高校の修学旅行は、地獄のまっさいちゅうだった。
西日本の観光地をめぐる4泊5日(車中泊あり)。これをどうして、大嫌いな奴らとまわらなきゃいけないのか? 世界遺産見るのが目的なら自分で金出してひとりで行ったらだめか? っつーか、自分をいじめてくるやつと一緒に風呂に入るとか生理的に無理なんですけど???
しかし「行きたくないから休む」が通る家でもなかったので、行った。バスが高速を走っているあいだじゅうずっと、次の瞬間爆発炎上レベルの事故に遭うことを願い、自分(と、あとごく少数の友人)の命だけははなんとしても守ろうと非常口をチラチラと見続けた。だがバスは無事に観光地をまわり、最終目的地の京都に着いた。
風呂は本当に無理だったので、生理中だと嘘をついてずっとシャワーで済ませていた(宿はすべて修学旅行生向けで、シャワーは大浴場とまったく別な場所に2つ3つ用意されていたような記憶がある。それを生理中の女子だけクラスごとに順番を回して使う)。京都ではそのシャワーの順番さえ飛ばされ、別のクラスの友人のお陰でなんとかありついたという様だった。
部屋はいちばんの大部屋で、クラスの女子が全員一緒だった。
無論隅っこに陣取ってすぐ寝た。
しかし、目が覚めるとまだ夜中だった。
声量をぎりぎりまで絞っているのに浮ついているとわかる話し声が聞こえ、暗闇の中に点々と小さな橙色が浮いている。煙草の匂いが流れてきた。
だせえ…
というのが最初の感想だった。
県下有数の進学校、誰も普段は煙草なんて吸ってない。優等生お嬢様たちの一晩かぎりの不良ごっこ、まじださすぎる。
教員にちくりに行こうかな? とも思った。しかし、クラスの女子の大多数が喫煙したことがバレて、全員が停学になるなんてことは現実に起こる気がしない。そんな事実、学校側だってもみ消しにかかるだろう。ちくったわたしの身が今以上に危うくなるだけで、メリットはない。
寝ちまうしかなかった。
が、目が冴えて眠れない。
周りを見回すと、わたしの斜めあたりの布団で、寝そべったまま本を読んでいる人間がいた。
コンドウアミ。学校でんんんまっったく口を開かない人間である。休み時間は自分の席でポケモン図鑑とか読んでいて、当然、わたしとともに教室から排除されている。この修学旅行においては、彼女をどこに割り振るかで、女子の自由行動時の班決めが揉めに揉め(わたしにはいちおうリョーコちゃんという美女の友人がいるため、揉めている最中もプレミアムな彼女にぶら下がった要らないオマケとして右に左に扱われた)、最終的に9人と8人という京都の街中を歩くには恥ずかしすぎる大人数の編成になったといういきさつがある。
そのコンドウアミ氏が読んでいる本の表紙にはこう書いてあった。
『完全自殺マニュアル』
最高かよ。
このクソな修学旅行の夜にその選書最高かよ(って言い回し、当時はないけど)。
わたしは一度も口をきいたことがなかったアミ氏に声をかけた。
「その本、面白い?」
アミ氏はあっさりと返事をくれた。
「面白いよ、読む? わたし、他の本も持ってきてるし」
自殺の方法と難度が書かれているその本を、部屋の隅の薄明かりの下いくらか読んだが、たいしてすすまないうち、アミ氏にもう一度声をかけた。
「出ない? ここケムいし」
アミ氏は布団を出た。
煙草の火が灯ったままの大部屋を出る時、背中に圧を感じたが、振り返らなかった。
廊下に、女子のうちひとりが他のクラスの彼氏と一緒に座っていて、彼女は本当にただ彼氏と横並びに体育座りしているだけだったが、中で行われていることは知っていたのだろう、「先生んとこ、行くの?」と声をかけてきた。
行くわけないっしょと言い捨てた。
アミ氏と落ち着いて話せる場所を探して、非常灯だけが点いた旅館の廊下を歩き、行き着いたところは共同便所だった。
トイレでも洗面所でもなく純然たる便所、という趣と香りのその場所で、わたしたちはクソな学校生活への不満をぶちまけあった。
なんなの? この学校は? まじクソだわ、こんなとこだと知ってたらわざわざ来てねえわ! といきりたつわたしに対して、アミ氏はやや冷静で、いや中学の時からなんとなく噂は聞こえてきてたけどね、と語った。
次の日は最終日で、修学旅行の目玉である京都市中での自由行動があった。だがそれを寝不足で迎えようとどうでもよかった。その時はそれとわからない、徹夜特有の気だるさが身体の節々に感じられてきても、わたしは興奮して話し続けた。
もう20年以上経ったから、何をそんなに話したかはおぼえていない、でも、なんでか将来の話になったのだけはおぼえている。アミ氏のほうから訊いてきたのかもしれない。将来どうなりたい? と。
「なんでもいいから普通になりたい。『みんなと同じ普通の大人』になりたい」
どんだけいきっていても、いじめにまいっていたわたしは弱音を吐いた。それがほんとうのほんとうに心からの願いだった。バスが爆発して嫌いなやつらが全員死んだりはしない、修旅で煙草吸っても停学になんない。そんな世の中でわたしが願うことができるのは、やつらと同じにいつかなること、どーやってなるのかなってたのしいのか全然わかんないけど、ただ排除されないほうに、つまり排除するほうの人間になることだけだった。
アミ氏はわたしの答えをきくと、険しいくらいに驚いた顔で言った。
「そうなの? 私、普通は嫌。普通の大人にだけは絶対ならない」
この時のアミ氏の宣誓ほどかっこいい宣誓をわたしは知らない。
翌日の自由行動で、班のうち4人は「じゃ、そーゆーことで」くらいの感じで即刻どこかに消え、わたしはリョーコちゃんたちと一緒にあらかじめ計画表に書いた観光地をまわった。アミ氏も同じ班だ。彼女は相変わらず口をひらかず、昨夜安らかな寝息を立てつづけていたリョーコちゃんたちはわたしとアミ氏のあいだにあったことを知らない。
観光が終わり、最後に新京極で土産屋をひやかしているうちに、5人しかいない班でさらに2人がはぐれた。これは意図的でなくトラブルで、携帯もない時代だったから、どうしようこのまま集合場所に行くしかないのかな、と慌てたが、そのさなかにアミ氏が突然言い出した。
「行きたいところがあるんだけど」
どうせ班がバラバラになってるから、ひとりで見たいものがあるということらしかった。
「どこ」
わたしが訊くと、アミ氏はぼそりと
「アニメイト」
と言った。
もうひとりの子は「アニメイト」を知らず(たぶんその単語を聞き取ることもできず)首をかしげただけだったが、わたしはだいたい事態を了解して、「行きな」と言った。
「15分で帰ってきてよ!」
「ええ~」
「走って!」
修学旅行生でごったがえす人混みの中に、アミ氏の背中が消えていく。走れ! ともう一度声を上げてその背中を見送った。