ShortNteアーカイブ

どん底に大地あり

peco MVN 2016

どん底に大地あり

という言葉があります。これは長崎医科大の放射線科の先生だった永井隆先生が残した言葉。
(永井先生は、原爆投下後、長崎の子どもたちのために図書館を作ったり、桜の木を植えたり執筆したりと、尽力してくれた人です。白血病で亡くなりました。)

わたしはこの言葉がとても好きです。この言葉に出会った時、どんなことがあってもわたしは大丈夫なんだと安心しました。


34歳の時、わたしは乳がんになりました。病気が見つかった時は既にステージⅣ。これまで味わったことのない恐怖と不安に襲われました。

がんだと知った時から何日も眠れず、体もずっと小刻みに震えていました。手術と、その後の長い治療は、苦しかったです。

そして、その後3年の間に鎖骨と肋骨のところに2回再発して、手術と放射線治療をしました。

それから更に2年後、心臓の膜に大きな影。

それまで、家族や友達の存在がわたしを支え助けてくれていましたが、この時ばかりは怖くて怖くて、わたしはもう終わるのかも、と一人ぼっちで震えていました。
まだ小さな3人の子どもたちと別れなければいけないことが何より耐えられなくて、どうにかなりそうでした。
MRIを日にちを置いて2回撮ることになり、その2回目の結果、大きさが変わってなければ、概ね再発と見て間違いないので、治療を始めるということでした。

その2回目のMRIの時のことでした。
わたしは一人、長椅子に座って順番待ちしていました。
怖くて震えて、精神的にどん底でした。
真っ暗な底なし沼に落ちていくようでした。

小さい子ならわんわん泣いて、お母さあん!!と叫ぶところです。
大人のわたしは大声こそ出さないけれど、心の中では叫んでいました。

わたしが19歳の時に、41歳で突然天国に行ってしまった母。

なんでそばにいてくれないの?
なんで大丈夫だよって撫でてくれないの?
一人ぼっちでいるのに。

そばにいて欲しくて、わたしを抱っこして欲しくて、よしよしと、頭を撫でて欲しくて、あふれる涙を手でぬぐっていました。

その時です。
ふっと、右に目をやりました。
目に飛び込んできたのは、一人の女の人。
廊下をわたしの方に向かってゆっくり歩いてきていました。

他にも人は何人もいましたが、わたしはその人だけを凝視していました。
その人だけ、他の道を歩いてきているように見えました。

お母さんだとわかりました。

わたしの座っている長椅子に近づいた時に、その女性はわたしの長年の友人だとわかりました。
彼女は優しく笑って、何も声を発せず、わたしの横に座って、抱き寄せて、よしよしと撫でてくれました。
わたしはもっと泣きました。

泣いているわたしに、彼女は

大丈夫だよ

と、言ってくれました。

恐怖で冷え切った体が温かくなり、震えが止まりました。


彼女も同じ乳がんと闘っていました。


MRIの結果は、影は小さくなっていて、治療の必要はなし、という先生の判断でした。

それでは、その影はなんだったのか、開けてみないとわからないけど、それはリスクが高すぎるので、触らない方が良いということでした。

彼女がなぜ突然わたしの前に現れたのかは、わたしの名前がMRI室に呼び出されていたのを聞いたからだそうです。

不思議なことが起こったわけではありませんでした。
でも、わたしには彼女は母でした。


母なる大地

なんとなく、そんな言葉が浮かんできました。


あれからまた何年も経ち、永井隆先生が原爆投下後亡くなるまで親子で住んでいた畳2畳の「如己堂」に行く機会がありました。

そこで見つけた先生の言葉


どん底に大地あり


ああ、これだ


と、思いました。
とても安心しました。

わたしは大丈夫。
子どもたちも大丈夫。
誰だってみんな大丈夫!


乳がんと闘っていた頃、まだ幼稚園にも行ってなかった一番下の娘は今年成人を迎えます。
今日は、成人式のあとの同窓会で着るパーティードレスを買いに行きます。

乳がんのお話は、本当にもうずいぶん前のお話です。